「怖かった出来事」と、その経験に対する周囲の反応 ─日本の某都市でのフィールドワークにて

III 周囲の反応

 Aさんとの出来事のあと、私は、周囲の何人かの人にこのことを話しました。とにかく聞いてほしくて、何かの助言を求めて。結果的には、周囲の反応をみてさらに自分の混乱は深まっていくことになるのですが。
 なお、当時の私はこの体験を真剣に話すことができず、笑いながら自虐的に話したりしていました。ここでの反応は、そんな状況で発されたものです。

1 多かった(と記憶している)反応

(1)「(苦笑して)…困ったもんだ」
 私にとって教員の立場にあった年配の男性に話した時の反応は、苦笑して「・・・困ったもんだ」と頭をかいて終了。多忙なこともあってか、彼は無関心でした。 

→その時の私が思ったことは、「先生がこの件に関して何かを考えてくれたり守ってくれたりするなんてことを期待してはいけないんだ。自分自身の責任で、自分の体を守っていかなきゃだめなんだ」でした。

(2)「どうして知らない人の車に乗るの」「誘われるうちが花」
 これは母の反応です。最初は「どうしてそんな、知らない人の車に乗るの」「無防備なあんたが悪い」と叱責され、しかし、おおごとにならなかったとわかると「そういう声がかかるのも若いうちだけよ、誘われるうちが花っていうじゃないの。私も若いころは・・・」と母の若い頃のモテ・エピソードへ。 

→その時の私が思ったことは、「無防備だった私自身の落ち度」「誘われるうちが花と言うけど、嬉しがらなきゃいけないのかな?震えるほど怖かったのに、喜ばなきゃいけないのかな?」でした。

(3)「Aさんに悪気はなかった」「それだけあなたが魅力的ってことだよ」
 これらは、同世代から少し年上の男女の反応です。Aさんに同情して「Aさんに悪気はなかったんじゃない?若い女の子と恋愛したかったのに、口説き方が下手だったんだね」という人もいれば、Aさんを悪し様にいうことで、私を慰めてくれようとする人もいました。「あなたと付き合えるわけないのに気持ち悪いよね、勘違い男にそんなことされて災難だったね、それだけあなたが魅力的ってことだよ」というような。

→その時の私が思ったことは「悪気はなかったAさんに、恐怖感や気持ち悪さを抱いた私がひどいのかな」「お世話になったAさんを悪口のネタにしたいわけじゃない。Aさんにそんな欲望を持たせてしまったのは私が原因なんだ」でした。

 当時の周囲の人たちがこれを読んだら、「どうしてそんなひねくれた解釈になるの?!」とびっくりしてしまうかもしれません。私のことを励まそう、慰めようとした周囲の人たちの思いやりは、容易に想像がつきます。
 それでも、当時の私が思ったことは、「私がいけないんだ」ということでした。つまり、①この程度のことで怖かったと感じるのは間違っている(Aさんに悪気はなかったし、実際なにも起きていない)、次に、②怖かったとしてもそれは私の若い女としての「魅力」なるものが原因だから引き受けねばならない(誘われるうちが花)、そして、③今後も怖い思いをするかもしれないが、それには独力で/自己責任で対処していかねばならない(教員をはじめ「大人」は何もしないし、できない)、ということだったのです。
 このような「恐怖の否定」や、今後もフィールドでは独力で判断しリスクを回避せねばならないという「孤独感」によって、この出来事は私自身のなかでうまく整理されないまま、蓋をせねばなりませんでした。

2 救われた反応―「すっごく怖かったでしょう」「次から一緒にいこうか?」

 一方、当時、救われた反応として記憶されていることがひとつあります。少し年上の女性に話した時の、次のような反応でした。
 彼女は私の経験を聞いて、私がどんなに笑いながら話しても一切笑わず、話が終わると「・・・ありえない。すっごく怖かったでしょう。そんな目にあったら怖いに決まってるよ」。そして、「まだ調査は続くんだよね?ひとりで行くのが怖かったら一緒にいこうか?」と、言ってくれました。
 このとき、嬉しさと、張り詰めていた何かがゆるむようなほっとした感覚が心身に広がったことを覚えています。今思い返すと、怖かったという自分の感情を否定せず受け入れてもらえたことや、「今後それが起こらないように、一緒に考えるし、助けるよ」という意思表示が大きな救いとなったのでしょう。

3 たかが「周囲の反応」、されど「周囲の反応」

 後から考えると、私がこの「出来事」に直面して最も強く思ったことは、「お世話になったAさんが、一歩間違えば加害者になるところだった。そんなことが起きなければ、これからも互いに気持ちよく交流ができたかもしれない。それが絶たれてしまった。もう今後はこんな事態になりたくない(でも、どうしたらいいんだろう?)」ということだったのかもしれません。だから、「次から一緒にいこうか?」という言葉が、救いのように響いたのでしょう。
 私に、Aさんを罰したいとか、Aさんを告発したいという気持ちが起きたことはありませんでした。確かに、私が拒否しているのに車を走らせたことは無神経で強引だったとは思いますし、出来事の後、Aさんへの拒否感があったことは事実です。ですが、Aさんは私の体に無理やり触れるなどはしなかったし、そのあと冷静になって反省し、謝罪を言葉にしています。だから、Aさんが私にしたこと自体は、ひとまずそれで良いと思いました。
 しかし、周囲の人には、私がAさんを責めたい、または罰したいように見えたのかもしれません。その結果、彼/彼女らは、「Aさんに悪気はなかった」と「男の気持ち」を代弁したり、逆に、「Aさんの悪口を言って、すっきりしたらいい」と私を励ました気になったりしたのかもしれません。または、心配だからこそ、これからの予防のために「あなたが無防備だから」と注意喚起したり、慰めのために「あなたが魅力的だから」と言ったのかもしれません。 
 しかし、そのような反応は、かえって私の自責の念や孤立感へつながって、トラウマのように心に傷を残す結果に至ったのではないかと、今となっては思うのです。ちなみに、その後、いろいろあって悩んだ末に「周囲にそんな反応をさせてしまう私が悪い」という「自責ループ」に囚われ、心の健康を崩して心療内科で治療を受けました。もちろん、この出来事だけが原因ではありませんが、色々な原因の一つにはなりました。