目次
I はじめに
この体験記では、私が国内のある都市でのフィールドワーク中に経験した「怖かった出来事」を紹介します。これは「性被害」の経験ではないという人もいるかもしれません。ですが、その経験と、それを周囲に話した時の反応は、フィールドワークでのハラスメントを予防したり、ハラスメントに近い体験をした人への対応を考えるうえで、いくつかの糸口を与えているように思います。みなさんだったらどうするか、想像しながら読んでもらえると嬉しいです。
II 「怖かった出来事」
1 どんな「出来事」だったのか
当時、私は、20代の学生(女性)で、日本の某都市の郊外住宅地で、住民の方へ聞き取り調査をしていました。私は、インタビュー協力者を探してしており、それに協力してくれたのが、Aさん(男性、当時30代)という、地元コミュニティの代表者の方でした。いわゆるキーパーソンです。
今回の出来事は、そのAさんが紹介してくれた協力者のご自宅でインタビュー調査をしたあと、その帰り道で起こりました。
協力者の方のご自宅は、駅から徒歩で行くには遠く、往路はタクシーを利用しました。ご自宅でのインタビューには、紹介者のAさんも同席していました。2時間ほどお話をうかがって、帰る頃になると、外は暗くなり始めていました。協力者の方に御礼を言って外に出て、私がタクシーを呼ぼうとしていると、Aさんが家から出てきました。
Aさん:「もう暗いから、車で駅まで送ってあげますよ」
私:「ありがとうございます、でも、タクシーを呼ぶので大丈夫ですよ」
Aさん:「タクシー代がもったいないよ。学生さんはお金がないでしょう?駅なら僕も通り道だし、すぐそこだから」
「お金がない」のは事実で、1000円程度のタクシー運賃でも節約できるのは、正直ありがたい話でした。それまでAさんの車に乗ったことはありませんでしたが、Aさんとは初対面ではないということもあり、「それではお言葉に甘えて」と車に乗りました。
走り出してしばらくすると、どうも車窓の景色が、駅へ向かう道とは違うことに気づきました。
私「Aさん、こっちの道からも〇〇駅へ行けるんですね?」
Aさん「いや、せっかくだから、あなたの家まで送ってあげますよ」
私の自宅までは、その場所から車で1時間以上かかります。私は「本当に駅で大丈夫ですから」と言いましたが聞いてもらえませんでした。
Aさんの以下のような発言を聞いて初めて、Aさんが私のことを「デートの相手」(あわよくばそれ以上のことをする相手)として見ていることに気づきました。
「もうこっちの道に入っちゃったら、〇〇駅に戻るのは面倒なんだよね」
「夜のドライブも悪くないでしょ。夜景が有名な場所がここからならそんなに遠くないから行こうよ、そのあと家まで送ってあげるから」
「仕事でストレスが多くてね。奥さんも冷たくてさぁ。気晴らしにドライブ、付き合ってくれないかなぁ」
「ストレスのせいか、最近皮膚炎が出てるんですよ。背中とか本当にひどくて、ほらここ、触ったらわかりますよ(と、シャツをめくりあげて触らせようとする)」
「ドライブが苦手なら休めるところに行こうよ。この先にホテルありますよ。ラブホテルだけど、もちろん何もしない、できないんだ。これもストレスのせいかなぁ。だから安心して」
これらの言動をみた私は、混乱と恐怖で頭が真っ白になりながら、どうしたらこの「密室」から出られるのか考えていました。この「密室」は、相手の運転で移動しているのです。その気になればAさんは、このままホテルの駐車場へでも、山中や暗い公園へでも車を乗りつけられるし、力づくで私をおさえてレイプすることもできるのだ、と私は瞬時に理解しました。
私は運転席のAさんの大柄な体を見ました。押さえつけられたら、私は抵抗できるだろうか?多分無理。私は、バッグの中の携帯電話を握りしめていました。いつでも誰かに電話できるように。でも、いったい誰に?どのタイミングで?
同時に、私の中には、Aさんに失礼にならないように、できるだけAさんの気分を害さないような断り方をしなければ、という思いもありました。「Aさんは、今まで何人も調査協力者を紹介してくれた。今日だってそうだ。お世話になった方なのだから、恩を仇で返すようなことはしちゃいけない。それに、この人の気分を害して逆上させたりしたら、何が起きるかわからない・・・」と。
そんな混乱した思考の結果、Aさんに対し、「お力になれず本当にすみません!」「いやもうほんと、お気持ちだけで大丈夫です!」などという、よくわからない返答を繰り返しました。幸運といってよいのか、Aさんは、私のことを力づくでレイプしたいわけではなかったようでした。強引に体を触ったり、そのままホテルの駐車場に入っていったりもしませんでした。
どれくらいそんな時間が続いたでしょうか。私には途方もなく長く感じられましたが、ほんの20~30分だったかもしれません。車窓に、コンビニの明かりが見えた瞬間、「すみません、吐きそうです、そこのコンビニでおろしてください、お願いします!」と言いました。Aさんは車を停めてくれました。
車をおりてコンビニに入ったときの、煌煌とまぶしい店内の明かりに、心底ほっとした気持ちを今でも思い出します。その後のことは記憶があいまいです。トイレに入って「どうしよう、どうしよう」と思い悩み、友人に電話をしたのか、コンビニから近くの駅までの道を調べたのか、タクシーを呼んだのか、とにかくどうにかして帰ったのだと思います。
2 出来事のあと
数日後、Aさんからメールがきました。「怖がらせちゃったみたいで、すみません。何か協力できることがあればいつでも声をかけてくださいね」と。
その時点で、ある程度のインタビュー数が得られていたこともあり、Aさんの地域での調査は、もうしませんでした。その後、Aさんには二度と会っていません。
3 「おおごと」にはならなかったけれど
さて、ここまでのエピソードを読んで、皆さんはどう思ったでしょうか?
「これって性被害の話なの?好きでもない人に口説かれたけど丁重にお断りしたってだけの話でしょ?」という人もいるのではないでしょうか。
確かに、私も、この体験をどのように自分の中で整理すればよいのか、長い間よくわかりませんでした。「他人からみれば、確かに『性被害』とまでは言えないのかもしれない。もっと悪いことにだってなりえた。踏み越えたら大変なことになるラインの向こう側が見えた。でも、運よく、そんなことにはならなかった。それでいいじゃないか」と自分に言い聞かせることもありました。
ですが、それでも、私の中では、自身の人生の中で経験した、痴漢などの「多くの人が『性被害』『性暴力』と認める出来事」と同じくらい大きな恐怖として、また、思い出すと自己嫌悪と精神的な痛みを覚える経験として、強く記憶されているのです。
今、とても久しぶりに当時の状況を思い出しながら上の文章を書きましたが、その時の吐き気や動悸や冷や汗といった身体反応がよみがえることに驚きました。その時に見えた車窓の風景(「あれ?駅へ向かう道じゃない」)とか、助手席から見たAさんの大柄な体とか、車を降りてコンビニに駆け込んだときの明るさを、動画の再生ボタンを押したかのように眼前にみることができます。
「結果としてはおおごとにならなかった話」なのに、なぜこれほど痛みをともなう経験として記憶されてしまったのか。確かに「密室」での恐怖は大きなものでした。ただ、それだけではなく、この出来事について話した時の周囲の反応も、この経験を精神的にうまく処理できなくなった原因かもしれません。
Ⅲでは、この出来事を周囲の人に話した時の反応と、それに対する自分自身の反応を整理してみたいと思います。